1東西のラインが「タテ」だった時代
2019年9月12日
旅に出るということは横軸の移動ばかりでなく、縦軸の移動、つまり過去へ過去へとさかのぼることでもあります。
どちらにしてもそこは異次元です。われわれはつい現在(いま)の感覚で過去を知ろうとしますが、過去が異次元であったことが少しでも実感できれば、それこそ旅と言えるかもしれません。
われわれは、自分のことも、この世界のことも何もわかっていません。
歴史についてもそうです。経験を積み重ねても、それだけではわからないものにどうアプローチすればいいでしょうか?
たとえば、古代の人にとって、生きていくことは自然の営みを感じ、その法則性を信じることにつながっていました。
自然界の法則性は天体の運行に表れ、季節の移り変わり、植物の生長、月の満ち欠けなどを通じて体感できます。
日本列島で暮らすようになった人たちは、そうした森羅万象の移ろいなかでも、天空に浮かぶ太陽にとりわけシンパシーを抱いてきました。それは太陽信仰と呼ばれていますが、そのルーツは古く、縄文時代にまでさかのぼれる可能性は十分にあります。
あるとき、思いがけないところにそのヒントがあることを知りました。
時代は少々後になりますが、『日本書紀』にある成務天皇の事績にふれた一節に次のようなくだりがあります。
「山河を堺として国県(クニアガタ)を分け、たてよこの道にしたがって邑里(ムラ)を定めた。こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした」(注1)
系図上、成務天皇は第13代天皇にあたり、有名な日本武尊(ヤマトタケルミコト)の弟ということになっています。生年没はハッキリしていませんが、活躍したのは日本に国としてのまとまりが生まれつつある頃だったでしょう。
ただ、ここで注目したいのは、その事跡ではなく「東西を日の縦とし、南北を日の横とした」と書かれた箇所です。
方位と縦横の観念が、現代と逆になっていることに気づかれるはずです。この記述が正しいとするならば、少なくとも古代の日本では、東西のラインを「縦」と認識していたことになります。
南北を「縦」とする基準は、ご存知のように、どの季節に見上げても同じ位置に輝いている、北極星という天体にあります。
天の不動の一点から大地へと続く、一本のタテのライン。この見えないラインが方位の基準にされてきたわけですが、無重力である宇宙空間に、本来、方位など存在はしません。
あまりに常識すぎて自覚されていませんが、北が上にあるという定義も、北極星という基準があって初めて成り立つものです。
この基準が北極星ではなく、太陽だったらどうでしょうか?
そう、縦と横の概念が変わることになります。東西南北の位置づけが一変するわけですから、自然のとらえ方も、ものの見方も大きく変わり、文字通りのパラダイムシフトが起こるでしょう。
太陽のラインと北極星のライン
(つづく)
プロフィール
長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)