『石の花』という戦時中のユーゴスラビアを舞台にした漫画をご存じでしょうか?
1980年代、知る人ぞ知る月刊漫画誌『コミックトム』に連載された名作の一つで、作者の坂口尚さんはアニメーション制作会社「虫プロ」の出身。
あの手塚治虫をして「天才」と言わしめた伝説のアニメーターであり、漫画家としても独自の世界観に根ざした様々な作品を世に送り出しています。
いま、なぜ坂口尚なのか? それは、混迷する先に揺るぎのない光を求めるいまの世相が、見えないところで彼の哲学を強く求めていると感じるから。
『石の花』は、誰もが知っている作品ではないかもしれません。でも、作品の底流に流れる“世界を見つめるまなざし”は、おっかなびっくり世界と向かい合っていた十代の頃の僕に、いや、いまここにいる僕にも、生きるための強さと優しさを投げかけてくれます。
石の花とは何なのか? 坂口さんの作品世界から浮かび上がるまなざしの哲学を共有しましょう。

1なぜ「ユーゴスラビア」なのか?

2020月3月12日

物語は見知らぬ異国の土地で、唐突に始まりました。誘われたのは第二次対戦中の東欧、ユーゴスラビア。のちに一つの国にまとまり、また分裂するその歴史が暗示するように、

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字」

が混ざり合う、人類の歩みが凝縮されたような風土がそこにありました。

日本もまた、様々なルーツの人々が寄り集まって成り立っていますが、言語はおおよそ一つであり、仏教と神道がいがみ合うわけでも、国が大きく分裂したわけでもない、どこかふんわりとまとまってきた歴史があります。

旧ユーゴスラビア周辺地図

いろいろ問題を抱えつつも、何事も曖昧なままに流れていく社会の空気に、違和感を覚えながら浸かっていた10代の終わり。うつくしくて精緻なタッチで描かれたユーゴの物語は、まったくの異世界が舞台でありながら、いまも胸に残るさまざまな示唆に満ちていました。

作者は坂口尚。さかぐちなお? いやいや……ひさしと読むことを知ったのは、少し後のことです。プロフィールに1946年生まれとあるので、いわゆる戦後の団塊世代。

戦争を経験した世代ではない著者が、なぜこうもややこしい土地の、内部の民族紛争も絡んだややこしい戦争の物語を描いたのか?

10代の少年が、最初からそんなことを深く問うていたわけではありません。でも、読み進めていくうちに不思議なひっかかりを覚え、それはいまも謎のままになっています。

坂口尚って何者? なぜこんな強く優しいメッセージが発信できたのだろう?

その問いの答えは、謎のままで終わるのかもしれません。なぜならもう20年以上も前に亡くなってしまったから。僕のまったくあずかり知らぬところで、49歳の若さで。

「石の花」という物語は、戦争を正面から扱っていることもあり、坂口さんのうつくしいタッチとは裏腹に、うつくしい場面ばかりが描かれているわけではありません。

物語は第二次世界大戦が始まる直前、ユーゴ北部のスロベニアで始まります。

主人公のクリロとフィーは、幼なじみの14歳。物語の冒頭、代用教員として赴任してきた謎の若者……フンベルバルディンク先生と一緒に森のなかを歩いていました。

このちょっと変わった名前の人物は、主人公二人とわずかにふれあい、いくつかの謎かけだけを残して物語から忽然と消えてしまう、狂言回しのような役を担っています。

彼は、こう問いかけました。「きみたち、突然変異って知ってるかい?」

「親の系統になかった新しい形質が突然、生物体に出現し、それが遺伝する現象のことなんだ。つまり、今まで続いていたものと違う形や性質がひょっこり現れるんだよ。

フーホ・ド・フリース(注1)という人の説なんだが、それ以前にダーウィンは自然淘汰を唱えていた。これは環境の変化など生存競争の結果、適者生存して子孫を残し、劣者は子孫を残さずに滅びるということなんだ。弱肉強食だ。

どちらも生物の進化がどのように行われるかという説明だ。つまり、この花が新種をつくるのは、この花の中に変化をもたらすものがあるという説と、外からの刺激によるという説だね。

そのどちらが自然の摂理かあるいは両方なのかわからないが、ぼくはそのことからこんなことを想ったんだ。

力と運命……。人間は過去へも未来へもいける。記憶、思い出……。理想、憧れ……」

フンベルバルディンク先生は、進化論の話を一通り続けた後、「それは人間の力だ! 才能だよ」と声をあげました。

フンベルバルディンク「人間は現実の時間を歩きながら、頭の中で時を戻ったり先へ進んだり旅行できるってことなんだ! 1000万光年先の星の想い浮かべられるってことなんだ」

フィー「なんだか空想小説みたい……」

フンディルバルディンク「そう、空想さ。空想できるのは生物の中で人間だけだ。今、ぼくが空想しているのはカエルの子はカエルじゃなくなるっていう空想さ」

クリロ「じゃあ、人間の子は人間じゃなくなると何になるのさ。ドラゴンかい。ハハハ……」

フンベルバルディンク「ああ、もしかしたらね!」




(つづく)

注1 フーホ・ド・フーリス(1848~1935年)。「突然変異」説を提唱したオランダの植物学者。現在では、ユーゴー・ド・フリースの表記が一般的。

石の花

「戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる」(文庫版あとがきより抜粋)。主人公クリロとフィーの成長物語、様々なキャラクターが奏でる群像劇としても圧巻。1984年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全6巻、文庫版全5巻(講談社)。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

VIRSION(バージョン)

学習と記憶を繰り返しながら自己増殖し、やがて「自我」を持ち、「変態」まで始めた新型バイオチップ「我素」。開発メンバーの日暮月光博士が我素とともに行方不明になると、世界各地でデータバンクがハッキングされ「VERSION」というメッセージが残される。木暮の娘・映子と私立探偵・八方塞はオーストラリアへ捜索の旅に出るが……。「古今東西すべての小説・映画・まんがの中で、いちばん最高のAI物語は、他のどれでもなくまさにこの『WERSION』です!」(作家・瀬名秀明)1991年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全3巻。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

あっかんべェ一休

室町時代の禅僧、とんちでおなじみの一休さん(一休宗純)の生涯を描いた意欲作。後小松天皇の落胤として生まれた幼少期から、出家し、禅の修行に打ち込み、闇夜にカラスの鳴き声を聞いて大悟するまでの軌跡を丁寧にたどり、ブレイクスルーして自由人となった一休の素顔を浮き彫りに。自由とは? 人が生きる意味とは? 坂口作品で展開されてきたテーマが集大成として描かれる。1993年、講談社(アフタヌーンKCDX)より初版発行。単行本全4巻、文庫版上下巻。現在、文庫版のみ取り扱い。著者は、作品を描き終えた直後の1995年に逝去。

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プロフィール

ポートフォリオ

坂口尚 Hisashi Sakaguchi
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などで動画・原画・演出を担当。その後フリーとなり、1969年、『COM』誌にて漫画家デビュー。以後多くの短編作品を発表しつつ、アニメーションの制作にも携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』『フウムーン』などで作画監督・設定デザイン・演出を担当。1980年、代表作の一つ『12色物語』を執筆。1983〜1995年まで、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を断続的に発表。1995年12月22日、49歳の若さで逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。
坂口尚オフィシャルサイト「午后の風」 http://www.hisashi-s.jp

長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。2020年4月、『ゆるむ! 最強のセルフメンテナンス』を刊行。
オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)

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