『石の花』という戦時中のユーゴスラビアを舞台にした漫画をご存じでしょうか?
1980年代、知る人ぞ知る月刊漫画誌『コミックトム』に連載された名作の一つで、作者の坂口尚さんはアニメーション制作会社「虫プロ」の出身。
あの手塚治虫をして「天才」と言わしめた伝説のアニメーターであり、漫画家としても独自の世界観に根ざした様々な作品を世に送り出しています。
いま、なぜ坂口尚なのか? それは、混迷する先に揺るぎのない光を求めるいまの世相が、見えないところで彼の哲学を強く求めていると感じるから。
『石の花』は、誰もが知っている作品ではないかもしれません。でも、作品の底流に流れる“世界を見つめるまなざし”は、おっかなびっくり世界と向かい合っていた十代の頃の僕に、いや、いまここにいる僕にも、生きるための強さと優しさを投げかけてくれます。
石の花とは何なのか? 坂口さんの作品世界から浮かび上がるまなざしの哲学を共有しましょう。

2あっけなく崩壊した多民族国家

2020年3月12日

戦争が始まった当初、ユーゴスラボアは、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアの4つの地域・民族が寄り集まり、一つの国としてかろうじてまとまる状態でした。

そのため、ドイツ軍の侵攻を食い止められず、わずか10日で降伏。

スロベニアの小さな村に住んでいたクリロとフィーも戦争に巻き込まれ、紆余曲折ののち、クリロはゲリラ組織であるパルチザンに身を投じ、フィーは強制収容所に連行されます。

パルチザンは共産主義者を主体にしたゲリラ軍でしたが、のちにユーゴの大統領になるチトー(ヨシブ・ブロス・チトー)の統率力によって勢力を拡げ、ユーゴの諸民族を取り込んだ人民解放軍としてドイツ軍に抵抗していきます。

ただ、国全体が一つにまとまってドイツに抵抗したわけではありません。

開戦とともにユーゴ政府はイギリスに亡命、その遺志をついだ王政派のチェトニクは、共産主義を憎悪し、パルチザンとも争いました。

また、クロアチアには親独派の政権が生まれ、ドイツの庇護のもと独立国として承認されます。同国の実権を握っていたウスタシは、ナチスのファシズムを見本にし、対立関係にあったセルビア人を大量虐殺していきます。

チュトニクはセルビア人が主体でしたから、ウスタシとも争い、ウスタシはドイツに抵抗するパルチザンとも戦っていました。

オスマントルコ帝国の支配下にあったいくつかの民族が糾合し、一つの国としてまとまったのが、1918年。

ただ、それぞれの民族の抱える経済事情も政治志向も異なり、建国当初から屋台骨は揺らいでいました。それが回復できないまま、戦争であっけなく崩壊してしまったのです。

『石の花』のストーリーをもう少し追いかけていきましょう。

クリロには、ユーゴの独立運動に関わっていたイヴァンという兄がいました。理想主義肌で、面倒見のいい頼れる存在でしたが、じつは彼にはドイツ人の血が混じっていました。

両親が交通事故で亡くなったことで親族であったクリロの家に引き取られ、兄として家族同然に過ごしてきたのです。

イヴァンには、ドイツ時代の幼なじみがいました。ユーゴ侵攻の若き指揮官として活躍するマイスナー大佐です。彼の名前を出すことで死を免れたイヴァンは、ドイツ人のハーフという出自を利用してスパイとして生きる道を選びます。

といっても、彼が選んだのは祖国ユーゴ再建に暗躍する二重スパイという、きわめて危うい道です。そのことを知らないクリロは、兄の転向に大きなショックを受けます。

一方、クリロのいたパルチザンの部隊には、イヴァンの同志で、良き理解者であったブランコというゲリラの闘士がいました。

冷静沈着で寡黙、どんな苦難にも立ち向かえる屈強な男で、ゲリラの兵士として成長していくクリロにも大きな影響を与えます。

イヴァンの苦渋の選択を理解していたブランコは、クリロにこう言いました。

「イヴァンのことだがな……信じろ。何年になる? イヴァンと暮らしていた年月だ。一月や二月じゃなかろう。そのイヴァンを信じてやれ。

おまえが何を見たとしても……信じろ。信じるということはそういうことだ」

収容所に放り込まれたフィーは、亡くなった妹の面影を感じたマイスナー大佐に見出され、彼の屋敷に囲われます。

ただ、祖国ユーゴを蹂躙したマイスナーに心を開くことができず、自殺未遂をして一時的に失明したあげく、彼の暗殺に加担したことで再び収容所に送られます。

かたやゲリラの若き兵士。かたや強制収容所での強制労働……。いつ終わるともわからないユーゴでの戦乱を背景に、その後も過酷な運命が二人に襲いかかっていきます。


(つづく)

石の花

「戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる」(文庫版あとがきより抜粋)。主人公クリロとフィーの成長物語、様々なキャラクターが奏でる群像劇としても圧巻。1984年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全6巻、文庫版全5巻(講談社)。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

VIRSION(バージョン)

学習と記憶を繰り返しながら自己増殖し、やがて「自我」を持ち、「変態」まで始めた新型バイオチップ「我素」。開発メンバーの日暮月光博士が我素とともに行方不明になると、世界各地でデータバンクがハッキングされ「VERSION」というメッセージが残される。木暮の娘・映子と私立探偵・八方塞はオーストラリアへ捜索の旅に出るが……。「古今東西すべての小説・映画・まんがの中で、いちばん最高のAI物語は、他のどれでもなくまさにこの『WERSION』です!」(作家・瀬名秀明)1991年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全3巻。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

あっかんべェ一休

室町時代の禅僧、とんちでおなじみの一休さん(一休宗純)の生涯を描いた意欲作。後小松天皇の落胤として生まれた幼少期から、出家し、禅の修行に打ち込み、闇夜にカラスの鳴き声を聞いて大悟するまでの軌跡を丁寧にたどり、ブレイクスルーして自由人となった一休の素顔を浮き彫りに。自由とは? 人が生きる意味とは? 坂口作品で展開されてきたテーマが集大成として描かれる。1993年、講談社(アフタヌーンKCDX)より初版発行。単行本全4巻、文庫版上下巻。現在、文庫版のみ取り扱い。著者は、作品を描き終えた直後の1995年に逝去。

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プロフィール

ポートフォリオ

坂口尚 Hisashi Sakaguchi
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などで動画・原画・演出を担当。その後フリーとなり、1969年、『COM』誌にて漫画家デビュー。以後多くの短編作品を発表しつつ、アニメーションの制作にも携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』『フウムーン』などで作画監督・設定デザイン・演出を担当。1980年、代表作の一つ『12色物語』を執筆。1983〜1995年まで、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を断続的に発表。1995年12月22日、49歳の若さで逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。
坂口尚オフィシャルサイト「午后の風」 http://www.hisashi-s.jp

長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。2020年4月、『ゆるむ! 最強のセルフメンテナンス』を刊行。
オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)

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