『石の花』という戦時中のユーゴスラビアを舞台にした漫画をご存じでしょうか?
1980年代、知る人ぞ知る月刊漫画誌『コミックトム』に連載された名作の一つで、作者の坂口尚さんはアニメーション制作会社「虫プロ」の出身。
あの手塚治虫をして「天才」と言わしめた伝説のアニメーターであり、漫画家としても独自の世界観に根ざした様々な作品を世に送り出しています。
いま、なぜ坂口尚なのか? それは、混迷する先に揺るぎのない光を求めるいまの世相が、見えないところで彼の哲学を強く求めていると感じるから。
『石の花』は、誰もが知っている作品ではないかもしれません。でも、作品の底流に流れる“世界を見つめるまなざし”は、おっかなびっくり世界と向かい合っていた十代の頃の僕に、いや、いまここにいる僕にも、生きるための強さと優しさを投げかけてくれます。
石の花とは何なのか? 坂口さんの作品世界から浮かび上がるまなざしの哲学を共有しましょう。

4ヘーゲル思想の「限界」

2020年3月12日

少し脇道に逸れますが、もう少し哲学の話を続けていきましょう。

デカルト、カントとリレーされていった近代哲学は、ヘーゲルの構築した世界観によってひとつの完成を迎えたとされます。

ヘーゲルは「認識はバージョンアップし、より完成された方向に近づいていく」という、過去になかった視点を提示しました。

「たとえば子供の見るリンゴも大人の見るリンゴも、そのかぎりでは同じリンゴだが、大人はいろんな経験によって、ひとつのリンゴがどのように作られ、どのような成分をもち、どのように売られているかを“知って”いる。

このように人間の認識は、決まり切った『道具』ではなく、それ自体が生き物のように生長(高度化)していく性質をもっている。……その極限に〈神〉のような『完璧』な認識があると想定すればいい。すると、〈主観/客観〉の難問は解ける。そうヘーゲルは言うのだ」(注1)

ここから展開されるのがいわゆる弁証法で、対立するものどうしを統合し、より優れた、調和した状態へと導いていく、

テーゼ(正)×アンチテーゼ(反) →ジンテーゼ(合)

このプロセスはアウフベーヘン(止揚)と呼ばれ、多くの支持を得ることで、社会を進歩させる原動力にもなりました。

発想法として理に敵っていることもわかりますが、ニーチェはここにひそむ嘘を見抜きました。いくら弁証法を駆使しようと、客観はいつまでたっても客観のままだからです。ヘーゲルは、認識を深めていけば完成に近づくといいますが、それは「いつ」訪れるのでしょうか?

戦争末期、クリロのいた部隊は本隊からはぐれ、山中を幾日もさまよいます。

何のために戦っているのか? 生きるか死ぬかの状況下、もはやどんな正義を持ち出そうと何の説得力も持ちません。

パルチザンは人民解放軍であり、共産主義によるユーゴの統合と独立を標榜していました。それを大義として敵対する勢力と戦ってきたわけですが、極限の状況に陥ると、そんな理念などどこかに消し飛んでしまうでしょう。

戦争は人の生のひとつの究極形で、誰もが経験できるものではありません。でも、一人一人の日常の中にも同じように現実はあります。

たとえ平凡に映るものであっても、わずかなひずみのなかで精神の危機は訪れます。うまくいかないことが重なれば、夢や理想など簡単に引きずり下ろされてしまうでしょう。

たとえば、病気にかかり、明日をも知れない命と言われた時、自分がこれまで大事にしてきた価値観、考え方はどこまで役立つでしょうか?

そうした価値観を研ぎ澄ませたものを哲学と呼ぶならば、生きる力になり得るような〈強い哲学〉は本当に存在するでしょうか?

(つづく)

注1 竹田青嗣『現象学入門』(日本放送出版協会)

石の花

「戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる」(文庫版あとがきより抜粋)。主人公クリロとフィーの成長物語、様々なキャラクターが奏でる群像劇としても圧巻。1984年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全6巻、文庫版全5巻(講談社)。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

VIRSION(バージョン)

学習と記憶を繰り返しながら自己増殖し、やがて「自我」を持ち、「変態」まで始めた新型バイオチップ「我素」。開発メンバーの日暮月光博士が我素とともに行方不明になると、世界各地でデータバンクがハッキングされ「VERSION」というメッセージが残される。木暮の娘・映子と私立探偵・八方塞はオーストラリアへ捜索の旅に出るが……。「古今東西すべての小説・映画・まんがの中で、いちばん最高のAI物語は、他のどれでもなくまさにこの『WERSION』です!」(作家・瀬名秀明)1991年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全3巻。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

あっかんべェ一休

室町時代の禅僧、とんちでおなじみの一休さん(一休宗純)の生涯を描いた意欲作。後小松天皇の落胤として生まれた幼少期から、出家し、禅の修行に打ち込み、闇夜にカラスの鳴き声を聞いて大悟するまでの軌跡を丁寧にたどり、ブレイクスルーして自由人となった一休の素顔を浮き彫りに。自由とは? 人が生きる意味とは? 坂口作品で展開されてきたテーマが集大成として描かれる。1993年、講談社(アフタヌーンKCDX)より初版発行。単行本全4巻、文庫版上下巻。現在、文庫版のみ取り扱い。著者は、作品を描き終えた直後の1995年に逝去。

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プロフィール

ポートフォリオ

坂口尚 Hisashi Sakaguchi
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などで動画・原画・演出を担当。その後フリーとなり、1969年、『COM』誌にて漫画家デビュー。以後多くの短編作品を発表しつつ、アニメーションの制作にも携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』『フウムーン』などで作画監督・設定デザイン・演出を担当。1980年、代表作の一つ『12色物語』を執筆。1983〜1995年まで、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を断続的に発表。1995年12月22日、49歳の若さで逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。
坂口尚オフィシャルサイト「午后の風」 http://www.hisashi-s.jp

長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。2020年4月、『ゆるむ! 最強のセルフメンテナンス』を刊行。
オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)

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