『石の花』という戦時中のユーゴスラビアを舞台にした漫画をご存じでしょうか?
1980年代、知る人ぞ知る月刊漫画誌『コミックトム』に連載された名作の一つで、作者の坂口尚さんはアニメーション制作会社「虫プロ」の出身。
あの手塚治虫をして「天才」と言わしめた伝説のアニメーターであり、漫画家としても独自の世界観に根ざした様々な作品を世に送り出しています。
いま、なぜ坂口尚なのか? それは、混迷する先に揺るぎのない光を求めるいまの世相が、見えないところで彼の哲学を強く求めていると感じるから。
『石の花』は、誰もが知っている作品ではないかもしれません。でも、作品の底流に流れる“世界を見つめるまなざし”は、おっかなびっくり世界と向かい合っていた十代の頃の僕に、いや、いまここにいる僕にも、生きるための強さと優しさを投げかけてくれます。
石の花とは何なのか? 坂口さんの作品世界から浮かび上がるまなざしの哲学を共有しましょう。

5オモチャ箱には光が詰まっていた

2020年3月12日

このくだりを書いている前後、ネットをたどるなかで、まだ読んだことのなかった坂口さんの一文……『石の花』を書き終えた「あとがき」に触れる機会がありました。

コミックの最終巻に書かれたものらしいですが、当時、まったく読んだ記憶がありません(新装版のあとがきはまた違っています)。

引き込まれるようにして読んだところ、その内容に驚かされました。坂口さんがここまでの問いにふっと答えてくれたような……不思議なつながりが感じられたからです。

ここに、あとがきの一部を紹介しましょう。

「人は成長と共に庭先や路地裏や砂場から、やがて社会を視野に入れる。世界が広がっていく。しかし、私はどうもいぶかしく思っていた。本当に広がるのだろうか?

子供のころ超人(スーパーマン)に憧れる気持ちは、昔、子供だった私にもよく理解できる。シンデレラ姫を夢見る気持ちもわかる気がする。

だが、人は年齢を重ねるにしたがい、超人もシンデレラ姫も遠い存在となり、「オモチャ箱へオモチャを整理しなさい」と、言われ続けているうちにやがて、そういった者達もオモチャ箱の中にしまいこんでしまう気がする。

あの勇気や美や愛に満ちた空間の光を浴びて身も心も躍動していたとき、叱られたり、喧嘩したり、くさったり、泣いたり、淋しかったりしても、超人かシンデレラ姫の分身のような気になったりして立ち直れたものではないだろうか。エネルギーの根源(モト)になるような何かがあった。そういうものまでも……」

大事にしているものを捨てて、フェードアウトしてしまう瞬間が、子供から大人へのステップだと一般には思われています。

人生の中には、そういう諦めの瞬間があると感じる人も多いかもしれません。

しかし、坂口さんはこう続けます。

「……大人になってからあの“光”を求めてオモチャ箱の中をのぞきたくなれば、のぞくことは出来る。世の中にはそのための『もどき』がたくさんある。それは多分に現実生活を一時忘れさせるために、疲れを癒すために。

そして、もし幸運にも『もどき』でないものに出会えたとしても、尋常のことでは、かつて“光”を浴びた時のようには、事実、身も心も躍動はしないと思う。なぜなら、あまりにも外の世界の塵あくたが自身に降り積っているからだ」

オモチャ箱の中の世界……それは子供の頃、当たり前のように持っていた感覚や感情、つまりは自分自身の思いそのものでしょう。

この思い=主観を放り捨てて、外側の世界の世界観=客観を受け入れること。

それがこの社会で生きていくステップのように思われていますが、「自分の世界を狭くするだけだ」と坂口さんは言います。そして、「それにしても、あの“エネルギーの根源”は何だったのだろう」と問いかけます。

「あの箱の中には創造的かつ積極的な生き方の秘密が入っている気がする。

私は、それを見つけたいがためにもう一度あの箱をのぞきこんで、この作品を描き始めたのだと思う。なぜなら、オモチャ箱の外の世界でもいきいきと生きたいために……。

私には、オモチャ箱の中より外の世界の方が小さく見えてしょうがないのである」

ヘーゲル流の弁証法は、子供の感覚と大人の常識をすり合わせ、より高い次元に昇華させる力になるかもしれません。

光を捨ててしまうくらいなら、そのほうがはるかに健康的ですが、エネルギーそのもの、光そのものは帰ってこないでしょう。

ニーチェは、そこに近代哲学の限界を見たのかもしれません。過去の哲学者が設定してきた〈主観/客観〉という前提を疑い、「そもそも、そんな対立軸をつくること自体がおかしいのだ」と営々と積み上げられてきた世界観を破壊しました。

いわく、「世の中にはより正しい認識やより不完全な認識があるのではない。……より優勢な認識(解釈)と、より劣勢な認識(解釈)があるだけだ」(注1)と。

客観があるかどうか、その客観が主観と重なるかどうかが問題ではなく、目に映った世界を自分がどう解釈しているか?

もっと言うならば、自分自身の主観を鍛え、この世界のありようをエネルギーに満ちた認識に変えていくことができるのか?

「いや、世界がおかしいのだから」「あいつが間違っているのだから」と言った瞬間に、ルサンチマンが生まれ、主観と客観は分離されます。

客観を取り払って、主観のみを基準にして生きること……ニーチェはそれをより優勢な認識=「強い」と見なしたのです。

(つづく)

注1 竹田青嗣『現象学入門』(日本放送出版協会)

石の花

「戦争映画というとアメリカ、イギリスの活躍が出てくるので食傷気味であったのも事実であるが、民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味をひかれたこと、そしてユーゴは、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字が混在する複雑な環境であることの二点が、私の積極的な創作動機となった。特に“複雑な環境”は、この世界の縮小版ともいえる」(文庫版あとがきより抜粋)。主人公クリロとフィーの成長物語、様々なキャラクターが奏でる群像劇としても圧巻。1984年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全6巻、文庫版全5巻(講談社)。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

VIRSION(バージョン)

学習と記憶を繰り返しながら自己増殖し、やがて「自我」を持ち、「変態」まで始めた新型バイオチップ「我素」。開発メンバーの日暮月光博士が我素とともに行方不明になると、世界各地でデータバンクがハッキングされ「VERSION」というメッセージが残される。木暮の娘・映子と私立探偵・八方塞はオーストラリアへ捜索の旅に出るが……。「古今東西すべての小説・映画・まんがの中で、いちばん最高のAI物語は、他のどれでもなくまさにこの『WERSION』です!」(作家・瀬名秀明)1991年、潮出版社(希望コミックス)より初版発行。単行本全3巻。現在、取り扱いは電子書籍のみ。

あっかんべェ一休

室町時代の禅僧、とんちでおなじみの一休さん(一休宗純)の生涯を描いた意欲作。後小松天皇の落胤として生まれた幼少期から、出家し、禅の修行に打ち込み、闇夜にカラスの鳴き声を聞いて大悟するまでの軌跡を丁寧にたどり、ブレイクスルーして自由人となった一休の素顔を浮き彫りに。自由とは? 人が生きる意味とは? 坂口作品で展開されてきたテーマが集大成として描かれる。1993年、講談社(アフタヌーンKCDX)より初版発行。単行本全4巻、文庫版上下巻。現在、文庫版のみ取り扱い。著者は、作品を描き終えた直後の1995年に逝去。

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プロフィール

ポートフォリオ

坂口尚 Hisashi Sakaguchi
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などで動画・原画・演出を担当。その後フリーとなり、1969年、『COM』誌にて漫画家デビュー。以後多くの短編作品を発表しつつ、アニメーションの制作にも携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』『フウムーン』などで作画監督・設定デザイン・演出を担当。1980年、代表作の一つ『12色物語』を執筆。1983〜1995年まで、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を断続的に発表。1995年12月22日、49歳の若さで逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。
坂口尚オフィシャルサイト「午后の風」 http://www.hisashi-s.jp

長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。2020年4月、『ゆるむ! 最強のセルフメンテナンス』を刊行。
オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)

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