自然を観察の対象にし、それを細部にわたるまで分析することで普遍的な真理を見出す。……この数百年、そうした科学的探求が受け継がれることで、この世界の実体が鮮明に浮かび上がってきましたが、その一方で、分析が進めば進むほど、観察者である「わたし」と観察されるものである「自然」は分離されていき、気がついたら事実だけが一人歩きする味気ない世界に変わってしまった面もあります。

「生命誌」(Bio History)を提唱される中村桂子さんは、DNAの研究者として先端科学の第一線で活動されてきた一人。科学の世界のすばらしいエッセンスを大事にしながら、このつながりを取り戻すための新しい学びの体系を伝えてきました。

私たち人間は、自分もまた自然の一部であることを忘れ、それにゆえに暴走し、自ら不安を増幅させてしまう、とてもふしぎな生き物。そのふしぎさを優しく受け容れながら、目に見えるものと目に見えないもの、科学と野性をどうつないでいくか? 

大阪の「生命誌研究館」を訪ね、「生命誌」の視点から、これからの私たちの進んでいく道すじについてお話を伺いました。

2研究者は自分の論文を演奏すればいい

2020年4月27日

――
ただ、先生もお書きになっていますが、科学自体に抽象概念になりかねない部分がありますよね? 研究するほどに、日常とか自分の生活といった具体的な世界から離れていくという……。
中村
(一般的な科学では)専門化するということは、より抽象化することとされていますけれど、私の場合、それが日常とつながった時に初めて自分にとっての学問になるんです。
――
もしかして、そこが伝えづらかったんですか?
中村
ええ、全然わかってもらえませんでしたね。私はここを作った時、「生命誌研究館」という6文字の言葉をセットで思いつきました。生命誌をやりたくて、普及するために研究館を作ったのではなくて、生命誌は研究館でしかできないと思ったんです。
――
なるほど。
中村
ではなぜ研究館かというと、いまの世の中のお約束事としては「研究したら論文を出す」ということになっています。それをやらなければ専門家としてのレーゾンデートル(存在理由)がないので、やらなくてはなりませんが、一般の人にとってそれは楽譜でしかないだろうと。
――
一般人は楽譜は読めませんね。
中村
ベートーヴェンの「運命」という交響曲は誰でも知っている名曲で、みんなが愛しているけれど、ベートーヴェンの楽譜が置いてあっても「運命」だとわかる人がどれだけいますか? もちろん、作曲家や指揮者はわかるでしょう。でも、ほんの一握りの人たちですよね?
――
そうですね。演奏を聴いて初めて素晴らしいとわかるのが、一般の人です。
中村
その時、ベートーヴェンが生きていて、演奏してくれたら最高ですよ。それが本当の「運命」でしょう? だとすると、研究者は自分の論文を演奏すればいいんじゃないかって思ったんです。「音楽は必ず演奏するのに、なぜ科学は演奏しないんだ?」って思ったんです。だから、ここをコンサートホールにして、演奏しようと考えたんです。たとえば、N響が「運命」を演奏するとします。その時に演奏を「啓蒙普及」と言いますか?
――
ああ、言いません。
中村
彼らは自分の最高の演奏をします。だけど、「音楽を啓蒙普及しています」とは言いませんよね? どうして科学だけは「啓蒙普及」って言わなきゃならないの、と思ったんですよ。「私は最高の演奏をします。だからお聴きになりたい方はぜひいらしてください」というのが、科学においても本来の姿なんじゃないかと私は思うんです。
――
啓蒙と普及は、確かにおかしいですね。
中村
そもそも、「私たちが最高の演奏をするから聴きに来なさい」って強制したりしないでしょ? 聴きたい方が行くわけですよね? ところが科学だと、「啓蒙普及」と称して嫌がる人を連れてこようとするんです。そんな馬鹿なという気持ちです(笑)。
――
近代化の流れのなかで、そういうものがすべてセットで動いてきている部分があって、そこに胡散臭さや違和感があるのかと。
中村
私は、科学も音楽や美術と同じだと思っているので、やるべきことは、自分たちが携わっているものを最高に表現しましょうということなんです。だから、ここで何かをやる時は美しくなければいけないし、思いがこもっていなければいけない。ただ普及のために「私たちはこんなことやりました」というだけのものは決して置いてはいけないんです。自分の気持ちを込めたものを美しく表現し、それを見ていただくことが大事だと思うのです。

(つづく)

2016年7月、大阪・高槻市「生命誌研究館」にて収録。

「DNA研究は面白いけれども、庭の花が咲くのを見たり、子供を育てている時の生きものへの気持ちとなかなか重ならない。そこをつなぎたい」(中村桂子・談)

生命誌の考え方を多くの人に伝えるべく、生命誌研究館を開館する際に描いたのがこの「生命誌絵巻」。細胞内のDNAの総体であるゲノムに書きこまれている生きものの歴史と相互の関係を表しています。

中村桂子先生が「生命誌」を提唱したのは、1990年代初頭。
生命科学を探究するだけではおろそかになりやすい、「生きているってどういうことだろう?」という基本をふまえ、科学を学ぶことが日常の、一人一人の生き方につながる、そんな新しい知のあり方を目指しています。

生命誌の「誌」には、博物誌といった言葉があるように、歴史物語という意味があります。
生き物が活動している様子、体や心の構造などをよく観察し、そのバックグランドにある普遍的な世界を紡ぎ合わせていくことで、生命科学がもっと当たり前のものになると、中村先生は考えておられます。

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プロフィール

ポートフォリオ

中村桂子 Keiko Nakamura

1936年東京生まれ。59年、東京大学理学部化学科卒。理学博士。三菱化成生命科学研究所、早稲田大学人間科学部教授などを経て、93年、大阪・高槻市に「JT生命誌研究館」を設立。大腸菌の遺伝子制御などの研究を通じ、生物に受け継がれている生命の歴史に着目、「生命誌」を提唱する。2002年に同館の館長に就任。2020年4月より名誉館長に就任した。著書は『生命科学から生命誌へ』『自己創出する生命』『科学者が人間であること』『小さき生き物たちの国で』など多数。2015年、ドキュメンタリー映画『水と風と生きものと〜中村桂子・生命誌を紡ぐ』(藤原道夫監督)が公開された。
http://www.brh.co.jp

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