今回のTISSUE(ティシュー)では、「毎日は愉しい」をテーマに、さまざまな分野からつむぎだされた次の7つの物語をお届けします。いったいどんな物語なのか? ご案内していきましょう。
6坂口尚/漫画『石の花』の世界
2019年8月26日
『石の花』という戦時中のユーゴスラビアを舞台にした漫画をご存じでしょうか?
1980年代、知る人ぞ知る月刊漫画誌『コミックトム』に連載された名作の一つで、作者の坂口尚さんはアニメーション制作会社「虫プロ」の出身。
あの手塚治虫をして「天才」と言わしめた伝説のアニメーターであり、漫画家としても独自の世界観に根ざした様々な作品を世に送り出しています。
いま、なぜ坂口尚なのか?
それは、混迷する先に揺るぎのない光を求めるいまの世相が、見えないところで彼の哲学を強く求めていると感じるから。
『石の花』は、誰もが知っている作品ではないかもしれません。でも、作品の底流に流れる“世界を見つめるまなざし”は、おっかなびっくり世界と向かい合っていた十代の頃の僕に、いや、いまここにいる僕にも、生きるための強さと優しさを投げかけてくれます。
少し長いですが、物語のエッセンスを本文から抜粋しましょう。
物語は第二次世界大戦が始まる直前、ユーゴ北部のスロベニアで始まります。
主人公のクリロとフィーは、幼なじみの14歳。物語の冒頭、代用教員として赴任してきた謎の若者……フンベルバルディンク先生と一緒に森のなかを歩いていました。
このちょっと変わった名前の人物は、主人公二人とわずかにふれあい、いくつかの謎かけだけを残して物語から忽然と消えてしまう、狂言回しのような役を担っています。
彼は、こう問いかけました。「きみたち、突然変異って知ってるかい?」
フンベルバルディンク先生は、進化論の話を一通り続けた後、「それは人間の力だ! 才能だよ」と声をあげました。
フンベルバルディンク「人間は現実の時間を歩きながら、頭の中で時を戻ったり先へ進んだり旅行できるってことなんだ! 1000万光年先の星の想い浮かべられるってことなんだ」
フィー「なんだか空想小説みたい……」
フンディルバルディンク「そう、空想さ。空想できるのは生物の中で人間だけだ。今、ぼくが空想しているのはカエルの子はカエルじゃなくなるっていう空想さ」
クリロ「じゃあ、人間の子は人間じゃなくなると何になるのさ。ドラゴンかい。ハハハ……」
フンベルバルディンク「ああ、もしかしたらね!」
石の花とは何なのか? カエルの子はカエルじゃなくなる? ドラゴンになる? ナチスのユーゴ侵攻を機に果てない戦争に巻き込まれた主人公たちは、この謎かけを繰り返し問い続けます。
キーワードとなるのは「まなざし」。
まなざしは生きる力そのものです。物理学者のマイケル・ポランニーは、ノーベル賞候補と目される輝かしい実績を残しながら、突如、哲学者へと転向、「暗黙知」という概念を提唱しました。
暗黙知とは、何かを認識する以前のところに存在している、全体を丸ごと感じとるような知性。そう、人は世界を認識する以前に世界そのものを感じている……『石の花』に描かれたまなざしは、この暗黙知とのつながりを思い起こさせます。
自分自身のまざなしが、世界のありようを決めている。
自分を取り巻く世界が自分自身を縛りつけ、不自由にさせているのではない、生の根源では自分が自分の生き方を決め、ここに存在させている。
世界の中心にきみ自身がいるんだよ……フンベルバルディンク先生ならば、微笑みながらそうささやくかもしれません。
漫画家・坂口尚が遺したメッセージを《哲学》の視点からひも解いていきますので、ぜひご一読ください。
(つづく)
今回のゲスト
坂口尚 Hisashi Sakaguchi
1946年5月5日生まれ。高校在学中の1963年に虫プロダクションへ入社。アニメーション作品『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などで動画・原画・演出を担当。その後フリーとなり、1969年、『COM』誌にて漫画家デビュー。以後多くの短編作品を発表しつつ、アニメーションの制作にも携わり、24時間テレビのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』『フウムーン』などで作画監督・設定デザイン・演出を担当。1980年、代表作の一つ『12色物語』を執筆。1983〜1995年まで、長編3部作となる『石の花』『VERSION』『あっかんべェ一休』を断続的に発表。1995年12月22日、49歳の若さで逝去。1996年、日本漫画家協会賞 優秀賞を受賞。
坂口尚オフィシャルサイト「午后の風」
プロフィール
長沼敬憲 Takanori Naganuma
作家。出版プロデューサー、コンセプター。30 代より医療・健康・食・生命科学などの分野の取材を開始、書籍の企画・編集に取り組む。著書に、『腸脳力』『最強の24時間』『ミトコントドリア“腸”健康法』など。エディターとして、累計50万部に及ぶ「骨ストレッチ」シリーズなどを手がけたほか、栗本慎一郎、光岡知足などの書籍も担当。2015年12月、活動拠点である三浦半島の葉山にて「ハンカチーフ・ブックス」を創刊、編集長を務める。哲学系インタビューBOOK『TISSUE(ティシュー)』を創刊。科学系インタビューサイト「Bio&Anthropos」(バイオ&アンスロポス)主宰。2018年夏、5年の歳月をかけてライフワーク『フードジャーニー』を脱稿。オフィシャルサイト「Little Sanctuary」(リトル・サンクチュアリ)